佐賀大学教養教育運営機構

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機構長のあいさつ

機構長のあいさつ

中原沙緒里(なかはら さおり)
遠藤 隆(えんどう・たかし)
■ 1957年、大阪府生まれ。
工学系研究科教授。

 新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。
 各学部で、専門教育の視点からオリエンテーションがあると思いますので、ここでは、教養教育の立場で、お話しをさせていただきます。
 佐賀大学では、「学士力」というものを定めています。これは、みなさんが大学を卒業したときに、全員が持っていてほしい能力です。今年度の新入生から、ラーニングポートフォリオという、自分自身で学習状況を点検するシステムが導入されますが、これによって入学から卒業までの間、学士力の達成状況を常に確認していくことになります。
 学士力には、三つの段階があると考えています。

 一つ目は、基礎的な力です。一般的な基礎知識や、専門分野の基礎的な知識や技能を身につけることです。
 二つ目が、応用的な力です。単に知識や技術を身につけるだけではなく、それを現実の様々な課題の解決に応用することが求められます。これは、知性と言っていいでしょう。
 三つ目は、その知性を、良い目的で使うことです。良い目的というのは、自分自身が個人として、卒業後も持続的に成長することです。そして、卒業後は社会人として、社会の持続的な発展のために、知性を使うということです。持続的発展というのは、一時的に繁栄すればいい、ということではなくて、環境問題を解決し、世界中の人々と共生しながら発展するということです。今、ふんだんに電気が使えれば、水や空気、大地や海を放射能で汚してもいいというのでは、持続性はありません。

 大学では、学部や学科、あるいは課程毎に専門的な知識について学ぶことになります。しかし、知識を、どういう場合に、どのように使うのか。新しい状況や課題に応じて、持っている知識をいかに活用するか、あるいは、新しい知識を生み出していくか、そういうことが求められています。そのような力を、知性と呼ぶならば、大学は、知識を知性へと高めるところです。

 感性も大事です。知識によって環境に働きかけ、それを変えていく力。それが知性だとしたら、知性だけでは人間として成熟したことになりません。自然の環境や人間と社会の環境に、やみくもに力を行使するのではなく、その結果を想像し、思いやる感性が必要です。なぜなら人間の感性と無関係に価値というものはないからです。
 そして、プロフェッショナルとして専門分野での知識や技術が高度になればなるほど、それが社会に与える影響も大きくなるのですから、一般市民と感性を共有する努力が求められます。教養とは、そのような市民性や公共性を自覚する営みでもあります。それは、知識から知性へ、そして知恵へと高めることだと思います。

 今は、テレビやインターネットで、様々な知識が簡単に手に入ります。だからこそ、玉石混淆の知識を選別し、その価値を判断し、何のために使うのか、常に反省する態度が重要です。たとえば、今、福島原発に関連して様々な情報がマスコミや政府機関から発表されていますが、誰がどういう立場で、どういう利害関係の元で情報を出しているのか考えないと、真実は見えてきません。公式見解だからと言って、鵜呑みにすることは危険です。

 教養教育運営機構では、知性と感性を磨くために、様々な科目が用意されています。佐賀大学の全ての学部の教員が、全ての学部の学生のために、教養教育科目を準備しています。内容は、それぞれの専門の研究活動の中で得られた特殊なテーマかもしれません。しかし、その先には、普遍的な価値を目指すためのヒントが含まれています。
 また、外部から講師を招き、社会の現場と結びついた科目もあります。まもなく募集がありますが、市民と交流しながら、市民と一緒に実践的に環境問題に取り組む「佐賀環境フォーラム」、障害者の就職を支援する人材を育成するためのプログラム、環境教育を中心にしたキャリア教育など、ユニークな科目も開かれていますので、ぜひ積極的に参加して下さい。受け身の学習では得られない経験ができます。
 単なる知識を身につけても、10年後には古くなっているかもしれません。しかし、本当に身につけた教養は、生涯にわたって、みなさんの視野を広げ、人間に対する理解を深め、真に重要な問題を洞察する力を与えてくれると思います。

 「不易と流行」という言葉がありますが、今流行していることだけでなく、真理を探求する営みの中に、時代を超えた普遍性への道が開かれているはずです。

 先月、東日本で大きな地震、そして津波があり、多くの犠牲者を出しました。また、その直後から、原子力発電所の事故が続き、深刻な事態になっています。
 日常生活の些末なことに埋没していた私たちも、人間の避けられない死や絶望的な状況に直面したときに、あらためて人生観や価値観を揺さぶられることがあります。人は必ず死ぬのに、なぜ、何のために、この生を生きなければならないのか。この問いには答えはないかもしれませんが、この問いを避けずに向き合うのが教養教育の一つの意義だと思います。
 また、私たち人類は、原子力のように、とてつもない技術を開発し、大いに恩恵を受けてきたかもしれませんが、本当に人間の幸福にとって必要なものは何なのか、あるいは、私たちはテクノロジーを安全に使いこなすだけの知恵があるのだろうか、そういう反省をもたらすのも、教養教育の役割だと思います。

 かつて津波に襲われたある村の高台に、「ここより下に家を建てるな」という石碑があり、そのことを常に意識していた村は津波の被害を免れたという話を聞きました。
 苔むした石碑から、先人の知恵を学ぶことの大切さを感じます。古典的な教養とは、いわば、この津波の石碑のようなものかもしれません。

 教養教育が、これからのみなさんの長い人生の糧となり、戒めともなることを願って、私からの挨拶といたします。